もうすぐで三十路のぼっちブログ

生きている感想を書いています。明るくなりたい。

自分は無表情だと思っている人はかおをもんでみると対人コミュニケーション力が向上するかもしれない。

かおのマッサージをやってみて、ここ数年かつてないほどに筋肉がやわらかくなった。

今日は、かおをもんでみようと思ったいきさつおよびかおの筋肉のこりと対人コミュニケーションの関係について書きます。

僕は人を信頼することができないのだと思う。
否定的な評価を下されるのではないかと常に疑わずにはいられない。
決して「この人は自分のことを気に入ってくれるだろう」という期待を持たない。
なぜか自分はデフォルトで人から嫌われる性質を持っていることに自分の中で決まっている。
このような心を持つ私は、人と接触する時はいつでも自分を隠そうとする。
素で振る舞うと自分は人から嫌われると思っているからだ。
マイナスをプラスに、少なくともゼロまで相手の印象を上げるべく努力するのだった。

あたらしく人と会うときは「嫌われたくない」というところから始まる。
後ろ向きだ。
ネガティブな印象を与えないようにということばかり考えて、逆にネガティブを連発してしまう。
たとえば、相手の話に空返事あるいは感情のこもっていない形だけのリアクションをする。
本当はその話に興味はない。
でも、何か興味のある風をしないとあなたは不快に感じるでしょう。
だから興味のあるそぶりをします。
それが人に対する最低限の礼儀というか、角を立てないための方策というか、ともかくそうしておいた方がなにかと都合がいいと思うから。
本当は、本当に興味をもてたらいいんだけど、できないものはどうしようもない。
演技がへたくそだから本心では何とも思っていないことがばればか、と思いつつ、
で、こんな風な自分は人として冷たいのではないか?
だから誰とも仲良くなれないのでは、きっとそうだ!、と相手のどうでもいい話にこわばった愛想笑いで応じながらひとり納得するのだった。

私は無表情だ。
だいたいいつも真顔でいる。
あるいは、こわばった表情を浮かべている。
よく「目が笑っていない」とか、「苦笑いしてる」などと他人から言われる。
「知ってるし、できればニコニコしたいと願ってるけど、かおが動かないんだよ」といつも悲痛になりながら心の中でつぶやくのだった。
どうしてこんなに自分は無表情なのか。
鏡を見てえがおの練習をしていたときにあることに気がついた。
かおが左側ほとんど動いていない。
それでなんとか動かそうとしてみたが、やはり動かない。
筋肉が固まっているのかもしれないと思い、意識してみると、こめかみとほおのえらの筋肉がかちかちである。
いつも緊張してかおをこわばらせているせいだ。
筋肉が凝っているのならほぐせばいいのだ。
肩こりと同じだ。
こめかみをもんでみた。
すごく痛い。
こりがある程度をこえると、もんだときに痛くなる。
それほどまでにこめかみが凝っていた。
村上春樹の小説で「こめかみが万力で締め付けられるように」という比喩があったのを思いだした。
自分のこめかみは丁度そんな風だった。
かおの筋肉のこりをほぐすのはとても気持ちがよかった。
あまりに気持ちがよくて帰宅してからの3時間くらいずっともみつづけていた。
マッサージ屋にいって人にやってもらえば楽だ、と考えたが、かおを他人に触られるのが嫌だ、と思って却下した。

自分がうまくリアクションをとれないのはかおが凝っていたからに違いない。
筋肉が柔らかくなれば表情が作れるようになるんじゃないか。
かちかちだから動かなくて無表情になる。
シンプルではないか。
このことに気づいたいま、自分はついに人とニコニコして会話ができるようになるかもしれない。
あこがれの、ニコニコに近づいたのか。

入念なマッサージで筋肉をほぐしたところで、やわらかくなった顔で人と話をしてみよう。
すると今までよりもかすかに相手の表情が明るい気がする。
今までは目をそらすかかすかに眉間にしわができて相手の表情が曇ることが多かったのだ。
相手は自分の鏡と云うから、これは自分のかおが明るくなったからだな、と満足したのだった。
よかったです。