禅
満たされない感じが慢性的につきまとっている状態が続いていて、どうすれば自分は満たされることができるのかと悩んでいる。世間でよく言われるように努力して自己実現すればしあわせになれるのだろうか。仕事を頑張れば、人間的成長も経済力もついてくるなんて言われる。そうすればいい女も寄ってくる、とか。でも、仕事は好きじゃない。つまらないんだ。こんな風に思う自分はおかしいのか?とか考えたりする。じゃあ、無理なく自分のできる範囲でたのしみを見つければ、しあわせになれるのだろうか。自分にはこっちの方が向いているだろう。好きでもないことを努力するなんてできないし。かといって、自分のできることで楽しいことは特にないのだった。出口はどこだろう。以前はこんな風に行き詰まったときはソープに行った。しかし、あるときそんな風にしてもただ虚しくなるだけだと気づいた。ソープにこころの救済を求めるのは無理な話だった。
不満は無限にわいてくる。容姿が良ければ、頭が良ければ、体調がよければetc... では、これらが良ければどうなるというのだろう?この望みが満たされてもなんだかさらに高望みしそうな気がする。要は、耐え難い現実から意識をそらしたいだけだった。でも、楽しくない現実なんかに注意を向けるくらいなら妄想してた方がマシ?
そこで行き着いたのが禅の思想だった。禅では「無我」を目指せと説く。「あるがまま」とも言われる。
- 作者: シャーロット・浄光・ベック,田中淳一
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それはたとえばこういうことだ。自分が苦痛を感じたとき、その感情をただ観察すること。自分の呼吸が浅くなったとき、ただそれを観察すること。そしてそれらの身体反応をコントロールしようとする自分をただ観察すること。禅では身体を観察することで「自我」の正体に気づいていくことを目指す。自分が「私」と思っているこの自我は、コントロール不能の怪物らしい。それは特定の刺激に対して特定の反応を返すようにプログラムされている。論理的な理由は存在しない。ただ、そうなっている。この刺激-反応のつながりを理性はコントロールしようとするが、それは却ってこの自動反応を強めるだけに終わる。では、理不尽なこの苦しみから解放されるにはどうすればいいのだろうか。それはひたすら「気づく」ことによって成し遂げられるのだという。僕はこれを「出来事と感情の因果関係を認識すること」であると理解した。「刺激aに対して身体が自動的に発する感情a」という非論理的な関連を分析により理解するのではなく、身体感覚として感じきるようにする。理性ではなく、身体感覚を研ぎすませることで自分の中で何が起こっているかに気づきたいと思う。そうしてすこしずつ生きやすくなっていけたらいいな。
エブリデイ禅 (今この瞬間を生きる、愛と営み) | |
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